奈良時代704年、高僧行基が母方の実家に寺を建てました。
それが家原寺(えばらじ)で、知恵の文殊さんとして、毎年受験シーズンには、大勢の受験生が祈念にやってきます。
白いハンカチを700円で買って、志望校や名前を書きます。
本堂の壁に押しピンで貼って祈願します。風物詩にもなっていて、毎年この時期にはニュースで取り上げられています。
早々と合格が決まった学生は家族と共に、お礼参りに来て、ぐるぐると本堂の回りを回ります。
中学受験でしょうか、親御さんに連れられた小学生の姿も見受けられます。
目次
行基の偉業
社会科の教科書に必ず出てくる高僧行基ですが、堺市にたいへんゆかりのある人物です。
当時としては非常に長生きし、81歳で他界しました。
どんな生涯を送ったのでしょう。
15歳で出家
668年、堺市の家原寺に生まれました。
682年に出家し、師匠道昭の下で修行をしました。
道昭は、貧しい人々に手を差し伸べ、生活が良くなるよう各地で土木事業を行いました。
行基も師匠の姿を見て、社会事業を引き継いでいったと思われます。
出家後の紆余曲折
- 庶民は、課せられる重税や朝廷に強制される重労働に苦しんでいました。
行基は、使役に苦しむ民衆が安らげる場作りに尽力しました。 - ところが、行基は朝廷から弾圧を受けることになります。
それは、行基の行っていることが、大宝律令の規定に僧侶として違反しているからだということでした。
仏教は国を守るためにあり、人々を救うために信仰するものではないという規定でした。 - 行基は、弾圧を無視し布教活動や社会事業を継続させました。
橋や道路、ため池などの治水工事を各地で進め、庶民を支える力となりました。 - やがて、国は官僚の反乱、自然災害や飢餓で大きく乱れました。
聖武天皇は仏教の力で国を守ろうとしました。
聖武天皇は大仏建立を計画しますが、圧倒的な人手不足が立ちはだかりました。 - 聖武天皇は、民衆から絶大な信頼を寄せている行基の公共事業を評価し、大仏建立に力を貸してもらえるよう呼びかけました。
聖武天皇は、大仏建立に貢献した行基に「大僧正」という最高位を与えました。 - 749年、大仏の完成を見ることなく亡くなりました。
行基が残した社会事業
たくさんあるので、ここでは堺市に開かれた寺院を紹介します。
また、ため池を作り、灌漑用水を確保し、農業の発展に寄与しました。
橋も建設しました。
港を整備しました。
開湯した温泉
家原寺の境内
山門の金剛力士像
アクセス
〒593-8304 大阪府堺市家原寺町1-8-20
TEL.072-271-1505
電車: JR阪和線津久野駅下車南へ徒歩10分、大池前交差点を東へ徒歩5分。
※津久野駅に道順を書いた看板があります。
自動車: 阪和道泉北インターを出て右折津久野駅方面へ約10分で大池前交差点右折すぐ。
※駐車場50台
※カーナビで家原寺またはえばら体育館を指定、大門前が駐車場への入り口です。
まとめ
堺の人々にとって、行基菩薩は大きな誇りで、行く先々で行基の偉業に触れることができます。
行基の生家「家原寺」は、近年の地震や台風の被害を受けて、大きなダメージを受けています。
現在、色んな箇所で修復工事が進められていますが、寺院建築の修復は時間も費用もかかるようです。
特に、つりかね堂の被害が大きく、3年ほどの修復期間が必要なようです。
毎年、大晦日の夜には、「除夜の鐘」をたたく音が厳かに響き渡ります。
人数制限がありますが、整理券を手に入れた人は、順番に除夜の鐘をたたけます。
子どもたちにとっては、とても楽しい印象に残る経験になります。
無事、工事が終わり、行基の願いが込められた鐘が聞けるよう願っています。
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